点描随想
これまで私が感じたことを思いつくままに書いてみます
順序はバラバラですが、徐々に書き足して行きます
1.こころの痛み
人の心の痛みは本来はその人自身にしかわからないものだと思います。しかし、一番つらいのはその苦しみを一人で抱え込んでいることだと思います。誰かに打ち明けることができたり、誰かといっしょに苦しむことができれば、つらさは半減すると思います。「ここに苦しんでいる人がいる」 そのことを知ることがこころの治療の第一歩と考えます。
2.治療する
人の精神を“治療する”ことなどはおこがましいことと思います。内科や外科のように「病んでいる」部位を直接治療したり、切り離したりするようなことは人の心にはできません。それを切り離してしまえば“別の人格”になってしまいます。我々“治療者”ができることはあるがままにその人の心を受け止め、どのように人生と折り合いをつけるかを共に悩み、考えることだと思います。
3.ビールの味と人生
「苦味がなければビールでない」と以前にCMがありました。私はこれをもじって「苦しみがなければ人生でない」といつも言っています。ビールは苦さにだいご味があるのであって、苦くないビールは誰も飲みません。のど越しの爽快さを楽しむのです。人生も苦味(苦しみ、ストレス)のない人生は味気がないし、誰ものまない(送らない)でしょう。うつやストレスに苦しむ人は言わば、「ビールの苦味」に耐えかねてビール(人生)を飲めなく(送れなく)なった人だと思います。我々治療する者はビールに砂糖を入れて苦味をなくすのではなく、苦味と共にうまみ(喜び)を感じるようになってもらうのが目的と思います。その方法は人によりさまざまです。例えば単に休養することで気持ちの整理がつく人もいますし、今までとは別の趣味や生きがいを持つことに解決を見出す人もいました。哲学や宗教的思索に救いを見つけた人もいます。精神的な危機をのりこえることによって“人間”として一段階
成長するわけです。治療者は“指示”するのではなく、その動きをそっと見守り支えるのが役目だと思います。
4.祈る
私は患者さんの治療がどうしても思うように進まない時はよく心の中で祈ります。「私には何もする力はありません、最善を尽くしますから、どうかこの人を救ってください」 特定の信心を持っているわけではないのですが、人知を超絶したものは確かに存在すると信じます。医学を含めた自然科学は万能ではありません、限界を知るべきです。

5.認知症とストレス
私は認知症の研究をしてきました。認知症、特にアルツハイマー型認知症は心理的要素を持っています。政治家や音楽の指揮者、芸術家などは認知症になる確率が低いことはよく知られていま一方、激しいストレスが認知症を引き起こすことも証明されています。例えば、配偶者と死別した時、逮捕拘留された時、重い病気にかかった時などです。しかし、ストレスが少なすぎる時も認知症になるようです。例えば、定年退職で何もすることのなくなった時、子供が巣立った時、長年の心配事が一挙に解決した時などです。認知症にならないようにするにするには政治家、指揮者のような適度のストレスが必要です。認知症も心身症の要因を持っています。
6.認知症の功罪
私自身、これまで肉親を含め、多くの認知症患者をみてきました。認知症になれば周囲の人の驚きや悲しみ、その後での介護の苦労は大変です。しかし、たいていの認知症の方はその過程で色々な問題行動があっても、本人はそのうちに穏やかな“仏さまのような”表情になっていく人が多いようです。そして本人は病気や“死”についても従容としています。認知症になるということはすべての悩みをなくし、一種の“さとり”に入る究極の方法かも知れません。
7.認知症患者さんの家族
認知症患者さんの家族のご苦労にはいつも頭の下がる思いがします。「そこまでできるものか!」と感動することもしばしばです。介護保険が導入され、さすがに以前よりは少なくなりましたが、今でも一人で24時間、365日介護している方もいます。「本人が嫌がる」「親は子供が看るものだと親族が言う」などの理由があります。 しかし、患者さん自身もデイサービスやホームヘルパー、訪問看護などで、家族以外の人に接することが重要です。そのことが認知症の進行を遅らせることは明らかです。少子化社会では家族がすべての高齢者を支えられません。周囲にいる人は特に「世間体」にこだわることなく患者さん自身のことを第一に考え、さらに介護者のメンタルヘルスにも充分注意してください。

8.百年たてば
私は“死にたい”と訴える人に言うことがあります。「百年たったら、あなたも私も死んでる。自然に、勝手に死ねるのに どうして今、自分で死のうとする?」 患者さんの反応はさまざまです。でも、これは私の本音です。本当に人間は必ず亡くなるのですから最後まで生きてみようではありませんか。仮に残りの人生が苦しみの方が多くても、途中でやめると、二度と味わえないのですから。
9.自分の心の姿
私たちは自分の顔や容姿は“鏡”がないと見られません。それと同じように自分の精神の姿は自分自身ではだれにも分かっていないと思います。それは他者という“鏡”に写っているのです。自分の言うことやすることに対する他者の反応や態度が自分の精神の姿を写す“鏡”だと思います。自分の心の姿を見失った時や自ら見ないようになった時に心の変調が起こるのではないかと思います。
10.本来の姿
人間は元来、どんな状況におかれても生きていこうとする力を持っているものと思います。心の変調が起こる時はその力が何かにおおい隠されている時だと思います。時間ときっかけがあれば、“生き抜いて行こう”という本来の姿に戻るはずです。例えば、切望していた夢が破れ、悲嘆にくれる青年が受診したと想定します。もちろん、私たちは話をよく聞き、薬を処方します。しかし、そのことで失くした夢が復活するわけではありません。話を聞くことでその人の苦痛を共感して共に担います。また、安定剤、睡眠剤などでその苦痛の緩和をこころみます。激しい感情がおさまる“時と機会を待つ”のです。おさまった時には“どんな状況でも生き抜いていく”という人間の本来の姿に立ち戻るはずです。今、“普通に”生活している人も肉親や親友をうしなったり、人生に挫折した経験のない人はないと思います。それでもみんな、希望を持ち、生きがいを作って生きています。僭越ですが、“人間は強くたくましい存在でどんな状況におかれても生きていこうとする力を持っている”と私は信じます。
11.性善説
私は人間は元来、善良でひたむきな存在であると信じます。自分の人生に不まじめな人などは居ないはずです。誰でも自分が人生のヒーロー(ヒロイン)なのです。一見斜めに構えているように見えてもそれは、何かへの反発であったり、抗議であると考えます。本来の姿が何らかの力で曲げられていると思います。みんな“良い人なのです”我々はその人の存在を認め、その苦しみを共感することができれば、問題解決に至らなくてもその人を支えて行くことができると思います。

12.やる気に火をつける
自分で言うのもおこがましいことなのですが、私も一応医学研究をしました。後輩の指導もしました。後輩を指導する時、一番感じたことは知識や技術を伝えるのではなく、その人のやる気に火をつけることが重要だということです。火がついてしまえば、その人は研究の途中で困難なことあっても一生懸命考え、全力を挙げて取り組み、かならず成果をあげています。こころの治療においても同じです。患者さん自身、家族、治療者がその気になり、一致して努力すれば、「あの人がこんなに良くなったのか!」と驚嘆される成果をあげることができます。しかし、その逆のこともあります。特に家族の力は偉大です。
13.家族の力
家族の力はこころの治療に特に大きな役割を持っています。それは代償を求めない大きなエネルギーであり、正しい方向に向えば、どんな治療者や薬剤も及ぶものではありません。しかし、家族が治療に不信を抱いていると、そのことは患者さん自身に言葉には出さなくても伝わります。そうなれば、いくら治療者が努力しても効果がなかったり、治療を途中で放棄してしまう結果になります。患者さんと家族と治療者の3者に相互の信頼関係がなければ治療は成立しません。家族の方で疑問があれば、それは遠慮なく治療側に聞いてみてください。
14.最善をつくす
どの治療者も皆、世界で最高の知識と技術それに最高の道徳をもっていれば問題はありません。しかし、そんなことはありえません。私たちにできることは“最善をつくすこと”だとおもいます。労力や時間をおしまず、自分のもっている知識や技術、人脈をフルに活用することだと思います。それらの努力はその場では実を結ばないことがあっても、患者さんや家族の気持ちに届くと思います。また、自分にも貴重な経験となり、いつかは報われるものと確信します。

15.ことば
言葉には限界があります。「百聞は一見にしかず」と言われるように百万言をつくしても言葉では表現できないものがあります。その人の雰囲気とか、顔の表情、目の色、しぐさなどです。こころの診断にはこの要素がかかせません。逆に一種の“職人技”で言葉を聞かなくても一目で診断がつくことがあります。モニターやネットを通じての遠隔診断や治療はこころの病気には永久にできないと思います。 *これに関して面白いエピソードを思い出しました。ある日、某拘置所に呼ばれて拘置中の人を診察しました。最初はサスペンスドラマに出でくるような“透明の板”(アクリル板?いくつもの小さい穴が放射線状に並んで開いているもの)を隔てて話しました。しかし、いつまで聞いても診断できません。そこでお願いして特別に拘置者の人と同じ部屋で机をはさんで話を聞いたところ、たちまち診断がつきました。目で見たり、耳で聞いたりするもの以外にも、何か一種の“気”のようなものも利用して診断しているのかもしれません。
16.薬
「薬はのみたくない、カウンセリングだけでできませんか?」と聞かれることがあります。私はいわゆるカウンセリング(精神療法)のみで治療できるケースは多くはないと思います。逆に薬だけで治療できるこころの疾患も少ないと考えます。心因やストレスによるうつ状態やパニック障害のような状態でも、いわゆる精神安定剤や抗うつ薬などで、不安やイライラ、不眠などの症状を改善しつつ(薬物療法)、患者さん(や家族)と共にストレスへの対処法や懸案の課題解決などを考えます(精神療法)。症状が安定すれば、漫然と服薬するのではなく薬を徐々に減らし、薬を無くする方向を探ります。一方、ホルモン異常や頭部外傷などの、原因が明らかに身体にある疾患でも症状だけをきいて薬の処方を調整しているのみでは患者さんに不信感を起こすと思います。日常生活の悩みやストレスなどに耳をたかむけることによって信頼感を得られれば、薬も一層効果をあげると考えます。心(精神療法)と身(薬物療法)は密接に関連し、切り離すことはできません。
17.日昏れて道遠し
最近提出したある書類に臨床経験年数を書く欄があり26年2ヶ月(17年8月時点)と記入しました。思えばはるかにやってきたものです。年数を重ねるごとに人を理解する範囲が広がっているのを感じます。逆に、至らないことが多いことも実感します。人間の精神は崇高な驚異にみちています。少しでも近づこうと思いますが、おそらく終着点はありません。「日昏れて道遠し」私の心境そのものです。

18.成長する
人間は生きている限り成長して行くものとおもいます。年を取れば運動や記憶などの個々の能力は衰えて行きますが、実際の経験や見聞が増えることで物事を総合的に判断したり、他人を理解する範囲が広がります。総合的な“人間力”は増強します。その意味で人間は生涯、精神的に成長を続け停止することのない存在のようです。成長の方向は人によりさまざまのようです。
その意味でも私たちは決して指示的にならず、それぞれの人の成長を見守り、自分たちも成長していきたいと思います。
19.矢
医師になって以来、25年以上お世話になったH病院の前院長、M先生が18年7月に亡くなりました。悲喜こもごもの思い出があり、万感
胸に迫るものがあります。肉親や親しい人がなくなった時、いつも読む言句がありますので紹介してみます。
この世における人々の命は定相なく、短く、苦痛に繋がれてつながれている。生まれたものは死を免れない。だからといって嘆き悲しんでも亡くなった人が帰って来るわけではない。亡くなった人をみて「かれはもう私の力の及ばぬものなのだ」とさとって嘆き悲しみを去れ、煩悩の“矢”を抜いて平安に帰せ。(中村元訳、ブッダのことば、短く改変)
月並みですが、日ごろの診療に力を注ぐことがM先生への供養と考えます。 (18年9月記)
20.人の輪
最近(19年2月)、自分の所は“外注クリニック”と感じています。入院治療や諸検査(血液検査、頭部MRI、脳波等)、身体疾患の治療、心理検査(カウンセリング)、訪問看護、デイケア、作業療法、ヘルパー派遣、ケースワーク等々これまでのネットワークを生かして他の機関に依頼しています。(もちろん、その後緊密に連絡をとり合います)逆に各機関からの受診依頼も増えています。これからの医療はおそらく一病院やクリニックで完結することは困難で“地域チーム医療”が重要と思います。これらの状況はおそらく医療界のみの現象ではないと考えます。社会の複雑化や通信手段の進歩にしたがって、“逆に”人間と人間の直接的なつながり即ち“人の輪”の重要性が増して来るのではないかと考えます。